GPの原点となる
創業時から今、
そして未来のことを
話します

代表取締役社長

進藤均

一点を照らすだけの小さな灯でも、多く集れば、街全体を照らすことができます。
一人では社会を動かすことはできませんが、様々な人たちが集まれば、きっと社会は変わっていくでしょう。 創業前夜から今に至るまでのこと、未来のことを語ることで、共感する仲間が増え、社会変革のきっかけとなればと切に思います。

なぜ起業するのか

なにをするか、よりも、なぜするのか

子供のころから不思議と起業家に憧れがあり、事業を興すことに興味をもっていました。気づけば学生時代には起業することが目標となっていました。
社会人として働きながら、「何のビジネスをやるか」「これから何が伸びるのか」と考えてきました。事業アイデアはいくつも出てくるものの、本当にやりたいことなのか?と自問自答しても、心が熱くなる事業はありませんでした。
考えることに疲れていたあるとき、ある本の中で「何をやるのか」ではなく「なぜやるのか」が大事という言葉に目が留まりました。事業をするには目的がもっとも大事なのだと気付いたのです。
当時は自分の出世やお金を得るために信念を曲げてでも働いている人が多い時代。これがダメということではなく、あまりにこれに執着する大人が多かったことに嫌悪感を覚えていたときでしたので、目的が大事という言葉はすっと心に入ってきました。

「何をするか」ではなく「なぜするのか」から決めよう。
このことは、なぜ働くのかを定めることでもありました。ビジネスの視点や市場ニーズを一切気にせず、心からやりたいことを考え始め、そして出てきたのが「社会のおかしいことを正していく」という思いでした。
自分の世代からみた社会はおかしいことだらけでした。常識的にみても人道的にも不正であることを解決できないだろうか。自分の力だけではどうにもならない困難な状態から抜け出せない人たちを救えないか。古い慣習が今の時代に合っていないものを変えていけないか。このようなものでした。大人たちはいったい何をしているのかと思いました。

正直いうと社会を変えるなんて無理だと思っていました。しかし、政治は変えないし、行政サービスは役に立たないし、民間に至ってはやる発想すらない。
誰かが動かないと変わらないではないか。この使命感が「社会問題を解決する」を掲げることになった原点です。
ソーシャルビジネスという言葉を耳にしたこともなく、社会起業家という言葉もなかった時代。当然、民間でそんなばかげた会社はありませんでした。もちろん不安でいっぱいでしたが、こんな面白い会社が一つぐらいあってもいいのではないか、という楽観的な気持ちもありました。

自分の問題意識は

障がい者が普通に生きる上での壁

多くの社会問題の中で、もっとも問題意識が高かったのは、障がい者に対する差別・偏見でした。社会保障はあるものの平等な機会はありませんでした。
教育格差。進学率や就職率の悪さ。昇進や給与の格差。結婚の壁。これらの状況を変えられないだろうか。これらは障がいのある本人の問題ではなく、社会側に心がないことが問題なのではないかと思いました。

そんなことを考えていたとき、TVで障がいのある人の生き方を取り上げるドキュメンタリーがやっていました。ヨーロッパのカフェで、イキイキと働く聴覚障がいのある女性の姿がありました。その方は、聞くこと話すことができません。それをお客さんは理解していて、身振り手振りで注文をし、お互いに確認し、飲み物を運んでいきます。アイコンタクトで御礼をし、ときにお客さんと談笑をする。自然のまま接していました。こんなふうに障がいのある人が普通に社会に溶け込んで生きている環境をつくりたい。そんな社会に変えていきたい。と考えを巡らせるようになりました。

障がいのある人には、「できない」「あぶない」といった否定的なイメージがついてまわります。さらに、「可哀そう」「悲しい」と同情されるような存在でもあります。
知的障がい者らが通所する福祉施設が建設されたり移設されるたびに、周辺住民から「何をするか分からないから怖い」「地価が下がってしまう」と反対運動が起こる話をよく聞きます。まったく根拠のない、間違った先入観です。貸す側からも「障がいのある人たちが怪我をしたら責任が取れない」という理由で断るケースが多いのです。何が問題なのでしょうか。障がいのある人が悪いことをしたのでしょうか。これが現実です。
ヨーロッパのカフェで働く聴覚障がいのあるスタッフとお客さんの間には、同情はありません。否定的なこともありません。不安もありませんでした。ただただ両者が自然に向き合って、受け入れながら生きていたのです。

障がいのある人たちが普通に生きていくには、当事者側を変えるのではなく、社会側にある「差別」や「偏見」を変える必要があるなという使命感が芽生えました。障がいのある人への「差別」や「偏見」は、一体どこから来ているのでしょうか。
そんなとき偶然、新聞社が実施したアンケート結果を目にしました。「駅のホームで車いすや視覚障がいの人がいたら、あなたはどうしますか?」という質問に対して、8割近くの人が「助けたい。だけどどのように助けたらいいか分からない。」という回答をしていました。接したことも話したこともないので「よくわからない」ということが分かりました。当たり前のことですが、障がいのある人と接したことがある人は、普通に接することができるし、心の距離が近い。それは子どもの頃から接している人ほど顕著に出ているように思います。

これらのことから「差別」「偏見」問題をなくすためには、「障がい者を知ってもらうこと」が課題なのだと決めました。これが起業後の最初の活動ミッションとなる「障がい者の良き認知を広め、差別偏見のない社会を実現する」につながるのです。

事業構想

三つの事業構想と雇用支援の意義

このミッションを果たすべく私は、事業構想を始めました。当初考えた事業は、三つありました。
一つ目は、ヨーロッパのカフェのように、障がいのある本人がスタッフとして働くレストランです。働く機会を提供するとともに、お客さんが障がいのある人と触れ合い、理解を深められる場にする。
二つ目は、障がいのある人たちが製造したものを販売する事業です。各地域にある福祉作業所には、手先がとても器用な人や、独自の感性、特殊能力を持った人たちがいます。その人たちの能力を生かした商品をつくるのです。一般市場にむけて、「かっこいい」「かわいい」「つかいやすくてすごい」といったヒット商品を生み出せば、障がい者のイメージが変わるのではないかと考えました。福祉作業所で働く報酬(福祉の平均報酬13,000円)を大幅に引き上げて、自立した生活ができると考えました。
三つ目のアイデアは、今取り組んでいる障がい者雇用サービスです。採用企業と働きたい障がいのある人をマッチングするサービスです。一緒に働くことで、知る機会を増やせると思いました。

これら三つのアイデアの中で、最も取り組むべきことは雇用分野でした。なぜなら問題が大きすぎただけでなく、あちらこちらに問題があったからです。
日本では「障害者雇用促進法」が制定されています(2019年4月現在では社員数の2.3%の障がい者雇用を義務づけています)。
2002年ごろ、障がい者雇用数は減少していました。それもそのはず、雇用率を達成していない会社は70%以上にのぼり、その会社たちは何も策を講じていなかったのです。企業に訪問をし、「障がい者雇用を改善したい」「欲しいサービスはありませんか」と聞くと、障がい者の雇用はこれから考えていかないといけない、という答えが複数社から聞かれました。

当時、障がいのある人の仕事探しは、ハローワークしかありませんでした(採用企業側もハローワークのみ)。私は話を聞いてみようとハローワークを訪れました。
訪問してみてまず驚いたのが、求人を紙で探すことでした。さらに、その近隣エリアの求人しか置いていないのです。机の上に1cmほどの求人票の束が置いてあり、1枚1枚手で探すのです。しかも、そのハローワーク管轄エリアの求人しかないので、別のハローワークに行かないとそのエリアの求人がないのです。インターネットの時代になんでこんなことになっているのか。
求人票の内容もひどく、仕事内容には「一般事務」「ファイリング」としか記載されていませんでした。年収は100万~200万円と低水準なものが多かったです。「障がい者は仕事ができない」とばかにしている求人でした。さらに、採用意思がない企業が仕方なく出している求人も多く、とても信頼できないものになっていました。
そのハローワークでは就職には結びついていませんでした。せっかく就職に結びついたとしても40%が早期に退職していました。これでは「障がい者は使えない。まったく迷惑だ。」というイメージを与えてしまいます。我々が変えたい社会とは真逆のことが起きていました。
いち早く、今のマイナスイメージを食い止めなければならないと思いました。これから先、障がいのある人が職場で活躍する事例をつくっていけば、良いイメージになる。その数を積み重ねていけば、差別や偏見は解消されていく。頭の中でそのビジョンを思い描くことができました。

同じ時期に、企業に訪問をし、「障がい者雇用で必要なサービスはありませんか」と聞くと、障がい者雇用はこれから考えていかないといけない課題であるという答えが複数社から聞かれました。私は、障がい者雇用分野に大きな可能性を感じたのです。

社会問題をビジネスで解決する。言葉にすると簡単なのですが、どういったビジネスモデルでできるのか、そもそもそんなことは可能なのか、ここがもっとも難しいことでした。今でいうとソーシャルビジネスという表現になるのですが、当時はそういった概念もなければ、他に類似する会社は見当たりませんでした。
NPOは法律ができたばかりでボランティアという印象でした。

自分なりにソーシャルビジネスを自転車で表現してみることにしました。自転車の前輪が社会問題解決、後輪がビジネスです。
前輪と後輪は同じ大きさの車輪が同時に回って前に進む。これを考えなければいけない。NPOの問題は、前輪の思いは大きいけど、後輪のビジネスが小さいこと。しかもゆっくりしか回らない。それでは自転車は前に進みません。やはり後輪のビジネスを大きくして、前輪後輪が同時に回るモデルにしないといけないと考えました。

周囲の反対

民間初サービス・株式会社へのこだわり

会社経営者や先輩に、事業アイデアを判断してもらおうと相談をしました。前向きな意見をもらえるだろうと思っていましたが、結果は逆でした。ありとあらゆる反対意見でした。
「障がい者でビジネスをやるなんて不謹慎だ。」「障がい者団体から訴えられる。」といった障がい者に対する悪いイメージの意見。「だれが障がい者にお金を出して採用するんだ?」といった彼らは仕事ができないという意見でした。障がい者というのは、危ない存在で、価値のない存在なのだ、中途半端に関ってはいけない、といわんばかりの声でした。
「マーケットが小さいからやめたほうがいい。」「社会貢献とビジネスは両立できるはずがない」というビジネスモデルに対する批判的な意見ももらいました。
私はこのとき、これこそが差別偏見からくる意見なのだと思いました。なぜ障がい者支援領域に、今まで民間企業が存在していなかったのかがよく分かりました。差別や偏見が参入障壁を高めていたのです。

当時から必ず聞かれる質問があります。「なぜNPO(非営利)ではないのですか?なぜ株式会社(営利)なのですか?」です。女性向けに洋服をつくる会社は営利企業がよくて、車いすの人向けの洋服をつくる会社は非営利でないといけないのでしょうか。こういったイメージこそが差別偏見なのです。障がいのある人に良いサービスを提供してお金をいただくことはまったく問題ないのです。

「やるしかない。」私は、日本初の障がい者支援の株式会社、そして業界初の障がい者専門の人材紹介サービスを始めようと決意しました。
「障がい者分野で起業しようなんて人は他にいないだろう。」と思ったときに、この問題はずっと変わらないままだと思いました。使命感のようなものが後押ししました。反対ばかりで折れそうな中、妻だけが賛成をしてくれて、家族全員で協力するよと言ってくれたことが大きな支えとなりました。

2003年4月、期待と不安の中、株式会社ゼネラルパートナーズは誕生しました。「ゼネラルパートナーズ」という社名は、“General”の「広める、行き渡らせる」という意味と、“Partners”の「仲間たち」を掛け合わせたものです。「社会を変えていく仲間たち!」という気持ちを込め、スタートを切ったのです。

創業期

はじめての就職決定がうまれるまで

上野にあるマンションの一室から始まりました。玄関ドアに紙の看板を貼り、営業活動を開始しました。
障がい者雇用を進めたいがどうすればよいかわからない企業と、働きたくても働けない障がい者を結びつける人材紹介事業です。
障がい者は0人、求人企業は0件、知名度はもちろん0です。にもかかわらず、営業開始初日からアポイントが30件とれました。企業側は興味関心があったのです。どのように雇用すればよいのか悩んでいたということです。「障がい者と働いたことがないので、どんな仕事ができるのかわからない」、「障がいってどんな人たち?なにを配慮すればよいの?」、「ハローワーク以外に採用方法がない」といったニーズがありました。
しかし「障がい者って、車いすの人のことでしょ?」と思い込んでいる人事担当者もいて、理解が遅れていると感じました。また、「障がいは軽度でないと難しい」「配慮はできない」「〇〇障がいの人は面倒」というわがままな声も多く聞かれました。さらには「仕事はないけど、来て席に座っててくれればお給与を払う。」という最悪の企業もいて、差別偏見が色濃く残っている状況でした。

まさに理解度マイナスからのスタート。ようは、何をすればいいかわからないけど、煩わしいことなく採用したいというニーズだったのです。障がい者への差別偏見を解消するためには、まず正しく理解してもらう必要がある。
丁寧に説明することに注力しました。どんな障がいなのか、どんな仕事ができるのか、どんな配慮が必要かについて詳しく伝えることから始めました。納得してもらうためにレジュメは何枚にもなりました。当然ですが、簡単に理解されるわけもなく、まったく求人獲得につなげられませんでした。しかし、風向きが変わる出来事がありました。

ある団体が、厚生労働省に対して、障がい者雇用率を達成していない企業名を公開してほしいという請求を行ったのです。そんなことをされたら企業はブランドに傷がつき、不買運動や訴訟など、大きなリスクとなることが予想されたため、経団連は猛反対していました。しかし反対を押しのけて企業名が公開され新聞で大きく取り上げられました。これは我々にとって大きな追い風となり、企業が本気で取り組むようになりました。求人獲得は間もなくして100社を越えました。将来的にはもっと大きなマーケットになる、そんな手応えを感じました。

しかし、障がいのある人たちはまったく集まりませんでした。最初、職業訓練校や特別支援学校に訪問しましたものの「公的機関は民間企業と付き合うことはできない。癒着になる。」と断られました。「生徒のよりよい就職が大事なのでは?」といっても取り合ってもらえず。「この手の民間企業はあやしい」と煙たがられる日々が続きました。
できることは、毎日、ホームページに集めてきた企業の求人情報を掲載すること。そして、誰かに役に立ってくれればという思いで「就職の極意」という障がい者が働く上でのノウハウを毎日書きました。数ヶ月経ち、月0人だった登録者が、2人3人と、少しずつですが増えていきました。

カウンセリングでは、一人ひとり丁寧に話を聞きました。そして、お客様とという関係ではなく、一人の人間として向き合いました。
障がいがあるといっても、色々な人がいます。甘えている人もいます。権利を主張するふざけた態度をとる人もいました。しかし、多くの人は、社会に人生を阻まれた人たち。差別や不平等な扱いをされていました。就職活動で100社受けても1社も書類が通過しない。面接に行っても障がいのことを話した瞬間に面接が終わる。聞くたびに怒りを感じていました。二人で涙を流すこともたびたびあり。机にはティッシュが必要でいつも置いてありました。

今まで障がい者は企業内で雇用されていなかったため、企業内での就業経験やパソコンを使う経験がそもそもありません。マッチングどころではないのです。能力や経験を推薦するのではなく、人となりを紹介するしかない。
軽作業的な求人を取ってきては「いい人なので、一度会ってください。」と地道に続けました。
求人内容とまったく違っても「一度会ってみてください。」としつこく提案し続けたことで、半年過ぎた頃、ようやく初めての決定がうまれたのです。その頃からインターネット検索が増えていたときですので、登録者は増えていきました。ほめられるようなものではありませんが、ようやく点と点がつながりだし、決定が生まれるようになりました。通帳の残金は底をついていたので、ギリギリの船出でした。

さらなる挑戦の連続

障がい者の「良き認知」を広めるために

1年ほど経過した2004年。100人以上の就職決定が出るほど、順調に上向いていました。仲間は5人になっていました。上野のマンション一室が手狭となり、20坪ほどの虎ノ門のオフィスに移転を検討していた頃、次の挑戦として業界初の転職サイト「atGP(アットジーピー)」をつくることを決めました。
当時ハローワークでは、自分が住んでいるエリアの求人しか見ることができない大変不便なものでした。また求人情報量も大変少ないものでした。これによって、北海道から沖縄、海外に住んでいても、希望の場所、気に入った仕事に直接応募できるようになりました。

その直後の2005年、「適職フェア」という面接会を開催しました。「会ってみないとわからない」「そもそも会ったことがない」という企業の声が多かったため、いろんな障害のある人と会えるイベントとして合同面接会を実施したのです。
企業50社、求職者250人が集まる日本で一番大きな障がい者転職イベントとなりました。就職決定が増えていくと、簡単に決まる求職者がいる一方で、まったく決まらない求職者がいることがわかりました。
身体障がいの中では、上肢障害や心臓障害など、配慮が少ない障害が決まりやすい。しかし、全盲の視覚障がい、重度の聴覚障がい、人工透析の方、車いす、HIV(免疫機能障害)は決まりづらいのです。そのため、企業に積極的に売り込み、求人獲得をする。またフォローを手厚くし、難しい人たちの決定に貢献していきました。

創業して7、8年ほどたった2011年ごろから、身体障がいだけでなく、精神障がい者が障害者雇用の法律の枠組みに加わりました。精神障がい者の求人開拓がまったく進んでいない時代であったため、まずは、精神障がい者に職業訓練トレーニングする学校を創設しました。
加えて、GP内に働く場をつくろうということで農業事業を開始するなど、他にはない挑戦を続けました。その後も障がい者総合研究所の設立。障害者のライフスタイルマガジン「madia116」の開設。目の前に問題があれば行動をする。誰もやってないことだからやろう。これらは創業から脈々と続くDNAとなっています。

0から1の功績

新事業が社会にもたらしたもの

GPは「就職が決まればそれで終わり」と考える人はいません。むしろ入社後が見せ場だという考えで運営をしています。

就職決定に応じて売上があがるモデルなので、決定が増えることは良いことです。しかし、障がい者のことを知ってもらうためには、入社後に仕事で活躍していることを見せることが大事なのです。
共に働いている人たちが「障がい者のイメージが良くなった」という状態をつくること。これこそ我々が真に喜ぶべきことなのです。目的がある。他の人材会社との大きな違いではないでしょうか。
企業から「障がい者って良くも悪くも普通の人でした」「障がいあるなしは仕事のできるできないに関係がない」「契約社員だったけど正社員に転換しようと思う」という言葉は我々が社会を変えている成果といえます。今もこの目的を大事に仕事をしています。

創業から2,3年が経ったところで、競合他社があらわれました。日本トップ5の大手人材サービス企業がそろって新規参入してきたのです。
創業前に大手人材企業に「障害者雇用の分野はやらないのか」と質問してまわりましたが、すべての会社でネガティブな回答でした。「うまくいかない。やりたくない。」「問題が起きたら大変だからやらない。リスクが大きい。」「株式会社は社会貢献をやっちゃだめでしょ。それはボランティアがやること」「マーケットが小さいから儲からない。儲からないことはやらない。」と言っていた会社ばかりだったのに、我々がうまくやっていたので参入してきたのです。こちらは弱小企業だったので焦りました。つぶされないように、のみこまれないように、という危機感がうまれたことを思い出します。

創業して10年以上が経ち、40~50社の民間企業が新規参入したことで、小さな業界が形成され、サービスが認知されました。障害者雇用人数は過去最高を毎年更新するほど、今でも成長しています。

初めに誰かが、道のないところをかき分け歩き始め、その後ろを歩く人があらわれ、またそこに続いて歩き始める人が続々あらわれ、またたくまに歩く人が増えていき、いつしかそこは大きな道になっていた。その道は日々いろんな人たちが通ることでさらに道が広がっていくのです。こんなことを体験しました。これらの体験から、社会を変えるには「最初に道なき道をつくること」がもっとも重要なことなのだと確信しました。
こうしてGPは「新たな社会問題解決事業を次々と創っていこう」という第二創業期へと移行していくことになるのです。

第二創業期へ

新たな問題意識。そして、未来へ

2017年、第二創業期を迎えました。今までの活動を振り返り、そして、ずっと先の未来を見据え、新しいゼネラルパートナーズとなることを宣言しました。
少子化による人口減少、経済の停滞、前向きでない高齢化、地方格差の拡大、財政の信頼欠如。これらの問題が続けば、社会全体として厳しい状態が続くでしょう。自分らしい人生を送れない不自由を、もっと解消していかなければと考えています。一方で、「社会問題を解決していきたい」と考える人が増えています。他人事ではなくなったのだと感じます。企業で働くビジネスマンの実に90%以上が、社会貢献に協力したいという想いを持っているそうです。GPには協力してくれる仲間がたくさんいることが分かりました。

ゼネラルパートナーズは、GPコアである「社会問題を解決する」に基づき、社会に障がい、うつ、LGBT、不登校、ひきこもり、難病、働く女性、高齢者など、不自由を感じる人がいれば、そこを活動領域とし、事業を開始します。主役は、問題意識を持ったGP JINです。その分野のリーダーとなり、裁量を持って、どんどん不自由を解消していく。仲間は、社員だけでなく、多様に富んだ社外の人たちも加わります。働くという概念を覆すような協力体制を創り、大きなうねりにしていきます。一つの事業に100人の仲間たちとの関わりによって不自由を解消していく。そんな取り組みを100創出できれば、10000人のうねりになるでしょう。ロゴに象徴されるように、あらゆる事業創造を、あらゆる人たちと取り組んでいきます。

ゼネラルパートナーズは「誰もが自分らしくワクワクする人生」というビジョンに向かって、一丸となって進んでいきます。
何事も「やってみよう。楽しもう。」の気持ちで、一人ひとりが新たな挑戦を続けていきます。